ハイブリッド車 感電
“車大好き子供はんが言ってた『HYBRIDのロゴ書いてあるやつダサいから外したいって人おるけどな、アレないとハイブリッド車ってパッと見で分からないから救助隊とかが知らずに事故車触って感電して最悪死ぬねんで!!』って、熱弁してた。こう言った知識もっと広まれ。
「脳の体力・持久力」が衰えた
“「老いる」とはこういうことか‥‥。
一見サボっているように見える。
人にやらせよう・やってもらおうとする。
人がやっていることにアレコレ言う。
途中で、他のことをやりだす。
一度こうと思ったら融通がきかない。
自分は下手だ、ダメだと愚痴を言う。
だけど、サボってるわけではない。
性格が悪くなったのでも、
人格が変わったのでもなく、
「脳の体力・持久力」が衰えたのだ。
だから知的体力として安易なほうに行く。”
智恵子抄 梅酒
“
智恵子抄 梅酒
死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光をつつみ、
いま琥珀も杯に凝って玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがってくださいと、
おのれの死後に遺していった人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終わった。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。”
— 子供のころ、はじめて出会った綺麗な文章。
高村光太郎 『智恵子抄』より「梅酒」
”
東芝
「かつての芝浦製作所が重電。東京電気が軽電。これが合併して東京芝浦電気となり、東芝となっていくわけですが、重電と軽電の権力争いっていうのが、ずっと流れとしてありました。1990年代に入ってからも家電営業(軽電)出身の西室泰三氏、社会インフラ(重電)出身の岡村正氏、パソコン(軽電)出身の西田厚聰氏と重電と軽電のたすき掛け人事が続くわけです。しかし重電の中核事業である原発建設は反対運動などの高まりで停滞し、成長産業から安定産業になってしまい、重電の人たちの影響力が低下した。原発事業の活路を海外に向けることで重電の人たちが自分たちの復権をかけるという思いが、WH買収の背景にはあると思います」
東芝が製造してきた原発は、沸騰水型炉(BWR)。WHは加圧水型炉(PWR)である。その背景についても、同書には詳述されている。
「WHの加圧水型が世界の潮流で、東芝はそのままでは世界に打って出ていけなかった。経済産業省は『原子力立国計画』として官民一体となって、原発輸出を推奨する国策を出していたので、その後押しもありました。アメリカでは1979年のスリーマイル島原発事故後、原発の新規発注が途絶えていましたが、ブッシュ政権が05年に原発の新設計画を盛り込んだエネルギー政策法をつくりました。世界でも原発をもう一度稼働させようという『原子力ルネサンス』と呼ばれる動きが出てきていて、それに乗っかろうという思惑も東芝にはあったわけです」
中国で4基の原発建設の受注を受けるなど、買収の効果はすぐに現れたが、東日本大震災で世界は再び原発建設に慎重になり、WHの価値はなくなってしまった。“再生”を謳っている東芝だが、それは可能なのだろうか。
「東芝のライバルは日立製作所ですが、経営に対する考えが根本から違います。危機に陥っても、日立は早い段階で経営を立て直す。日立というのは純粋に合理的な経営というのを考えてやっている。原発もやっているけれども、いの一番に規模を縮小して、自分たちの強い事業にフォーカスしながら経営を立て直していくということを、きちんとやっていける会社です。
それに対して東芝というのは、“親方・日の丸”の体質があって、経団連の会長の座を虎視眈々と狙っていたりして、財界というものに執着している。どちらかというと経営よりもそういうところに関心を持っている人がたくさんいて、その歪みというのがどこかに出ている。日立というのは、経団連の副会長はやるけど、会長はやらない。そういう依頼が来ても、断るくらいの会社です。東芝は延々とWHに振り回されたあげく、収益源であった東芝メディカルシステムズを売却して、今、唯一の成長エンジンである東芝メモリの売却を進めている。自分の手脚を食って生き延びようとしているようなものです。そんなことをするくらいなら、一度法的整理をして、ゼロベースから立て直すべきです」
加計学園幹部同席か
週刊朝日 2017年8月18−25日号より抜粋
いまだ真相究明に程遠い状況の加計学園問題。中でも最大の謎の一つが、2015年4月2日、愛媛県今治市の職員2人が「獣医師養成系大学の設置に関する協議」のために首相官邸を訪問していることだ。
訪問の時期は、今治市が国家戦略特区を使った獣医学部の新設を国に提案するより2カ月も前──。市町村の課長クラスが官邸を訪問することも異例だが、安倍官邸が訪問の詳細を頑なに明かそうとしないことから、問題の?核心?との疑念が深まっている。
本誌はこのときの面会相手が経済産業省出身の柳瀬唯夫首相秘書官(当時)だったとスクープ(7月23日速報)。同月24、25日の国会の閉会中審査でこの事実関係を問われた柳瀬氏は「記憶にございません」を7回以上、連発した。
8月2日には、愛媛県の中村時広知事が、この訪問に県職員3人も同行していたことを明かした。徐々に真相が明らかになる中、8月8日発売の「週刊朝日」では核心に迫る新たな証言を詳報している。
今治市の関係者がこう明かす。
「実は、問題となっている訪問には、複数の加計学園幹部が同行していたのです。加計学園側から今治市に連絡が行き、官邸訪問が実現したようだ。当時はまだ国家戦略特区の枠組みがどうなるかもわからない段階。首相秘書官から『準備、計画はどうなのか』『しっかりやってもらわないと困る』という趣旨の話があった。最初から『加計ありき』を疑わせるような訪問で、萩生田(光一前官房副長官)、柳瀬両氏が国会で頑なに資料、記憶がないと言い張ったのは、詳細を明かせば、それが一目瞭然でバレてしまうからではないのか」
獣医学部の新設は官邸主導で最初から「加計ありき」で進められたのではないか──。
異例のメンバーによる官邸訪問は、そんな想像を抱かせるに十分な状況証拠だ。
だが、話はこれで終わらない。この日、官邸には意外な人物もいたのだ。前出の今治市関係者がこう続ける。
「面会のため一行が官邸内に入ると、下村博文文部科学相(当時)もやってきて言葉を交わしたそうです。『やあ、加計さん。しっかりやってくれよ』というような話も出たと聞いています」
当日の首相動静を確認すると、下村氏は15時35分から57分まで、山中伸一文科事務次官(当時)とともに官邸で安倍首相と面会している。一方、今治市の記録では職員らが官邸を訪問したのは15時から16時半までで、確かに官邸内にいた時間は重なる。
下村氏といえば、後援会の「博友会」が13年と14年に加計学園の山中一郎秘書室長(当時)から計200万円分のパーティー券代を受け取りながら、政治資金収支報告書に記載していなかった疑惑が浮上したのは記憶に新しい(下村氏は違法性を否定)。
15年4月2日の官邸訪問について下村氏に取材すると、事務所を通じ、「(今治市職員や加計学園幹部らと)首相官邸で会話を交わした事実はございません。また、私が今治市職員らと柳瀬唯夫首相秘書官との面談をセッティングしたという事実もございません」と回答した。
政府はこれまで、官邸の入館記録が破棄されたなどとして面会の詳細について答えていない。国会では、菅義偉官房長官が「今治市に聞かれたらいかがでしょう」(7月10日)と答弁したので、今治市企画課にも取材を申し込んだが、「(訪問の)相手方や内容等については、今後の今治市の業務に支障が生じるおそれがあるため、今治市情報公開条例の趣旨にのっとり、お答えを差し控えさせていただいております」
加計学園に幹部が官邸を訪問したか、柳瀬氏や下村氏と面会したかなどの事実関係を複数回、問い合わせたが、「取材も多く、バタバタしている」とのことで、期限までに回答はなかった。柳瀬元首相秘書官は「これ以上お伝えすることはありません」とのことだった。
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